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カレーのヒント 078:「いい音楽」と「おいしいカレー」

音楽の世界には録音という手法があって羨ましい。

そのおかげで、ずいぶん昔に活躍した音楽家の音や演奏を聴くことができるからだ。でも、カレーの世界に録音に変わる手法は存在しない。

レシピは楽譜と同じだから、別の誰かが再現するという条件つきなら、音楽とカレーは共通している。でも、音楽には楽譜があって録音があるのだけれど、カレーは録音に相当するところがない。聴覚で楽しむ音楽と味覚と嗅覚で楽しむカレーとは違う。味や香りは残せないのだ。

味も香りも“録音”できたら、僕はせっせと作品作りに精を出すだろう。

グレン・グールドがわずか7年ほどのコンサート活動の後、ある段階から録音に執念を燃やしたことについてあれこれと思いを巡らせた。

なぜ、グールドは録音を選んだのだろう?

クラシック音楽業界で働く友人と昨夜そのことについてメッセージのやり取りをした。話の流れで僕が自分のカレー活動に対する考えを書くと、「バッハみたいだねー。現代の日本人ピアニストでいうと、レジェンド高橋悠治さんみたいな」と返事があって、YouTubeのリンクがついていた。その返事を見る前に寝てしまった僕は、今朝、起き抜けからリンクに飛んで映像を見る。それは、高橋悠治さんという作曲家への短いインタビューだった。
 
―いい音楽とはなんでしょうか?
「そういうものがあるとは思えませんね」
―いい音楽があるとは思えない。
「何か聴いたときに『ここから違うものができるんじゃないか』と思う。だけどそれがその音楽のなかにあるのかどうかっていうのはわからないでしょ。なにか可能性みたいなものが見えてくるきっかけになればいいんだけど、それがいい音楽だっていうふうには言えないと思う」
―いい音楽って価値づけることがよくないってことなんでしょうか?
「いい音楽っていうのは価値づけでしょ? おもしろいっていうのはちょっと違うんだよね。だから、おもしろいものがあれば、これがおもしろければ、こうもできるっていうことがある。ミュージシャンはそれをやっていると思う。だからあまりいい音楽とか悪い音楽とか考えたりしないと思うんですけどね」

短く穏やかに答えた後、映像は、高橋さんが静かに微笑んで終わった。

朝から僕はぶっ飛んでしまった。最近、ずっとカレーで考えていたこととほとんど同じような内容だったからだ。

高橋さんが「いい音楽というものがあるとは思えませんね」と言ったのと同じように、
僕は、「おいしいカレーというものがあるとは思えませんね」と思う。
高橋さんが「おもしろいっていうのはちょっと違うんだよね。だから、おもしろいものがあれば、これがおもしろければ、こうもできるっていうことがある。ミュージシャンはそれをやっていると思う」と言ったのと同じように、
僕は、「おもしろいっていうのはちょっと違うんだよね。だから、おもしろいものがあれば、これがおもしろければ、こうもできるっていうことがある。僕は(カレーで)それをやっていると思う」と思う。

きっと高橋さんは僕よりもはるかはるか深いところまでたどり着いてあの応答になっているとは思うのだけれど、僕は僕で以前からずっと「おいしいカレー」というものを信用していない。「好きなカレーはあるけれど、おいしいカレーはない」と思っている。「好きなカレーは人それぞれの中に答えがあるけれど、それとおいしいカレーとは違う」と思っている。仮に僕が今この時点で「好きなカレーは何ですか?」と聞かれたら、「あれとこれです」と答えられるカレーはある。でも、それは、たかだか20年ちょっと真剣にカレーと向き合ってきた水野仁輔という40代の中年男が「好きだ」と感じている程度のものであって、その程度の自分がたとえば「こういうカレーがおいしいカレーだ」と判断したところで、そんなレベルの低い話は信用できないじゃないか、と思う。

だから、もしかしたら、ほかの誰かの中には「おいしいカレー」が存在するのかもしれないけれど、僕の中には「おいしいカレー」は存在しない。もっと修業を積めばおいしいカレーが何かわかるだろうか。僕にはわかる気がしない。そういう意味で、高橋さんの言う「いい音楽というものがあるとは思えませんね」は、僕の脳裏に突き刺さったのだ。1日じゅう、その言葉を頭に浮かべて過ごした。

「おいしいカレーがあるとは思えませんね」

おいしいカレーを放棄するつもりはない。でも、僕にとって「おいしい」という概念や感想は極めてあいまいなもので、それをどこか隅っこに置いた状態で「おもしろいカレー」のあり方について探っていきたい。

今日は本当にいい一日だった。

明日になれば、「またくだらないこと書いてんな」と自分で自分のことが恥ずかしくなりそうなので、熱い今のうちに記録しておこう。

(水野仁輔)


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