カレーのヒント 084:裏か表か
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カレーのヒント 084:裏か表か

10時45分、横須賀線が逗子駅に着いた。

待ち合わせの時間は11時30分。時間に正確なタイプとは言えない僕が45分も前に到着したのは、何年も前から気になっていたカレー店にようやく行くことになっていたからだ。12時にオープンするというその店は、30分前の11時30分には並び始めておかないと、1巡目の席を逃すそうだ。だから、店の前に仲間と3人で待ち合わせすることにした。決して遅れることはできない約束なのである。

スマホの乗換案内アプリを使っていくつかの方法で経路検索をし、はじき出されたルートを30分以上早い電車でたどることにした。逗子駅の改札を出た僕は晴れやかな気持ちで初めて降り立つこの街を歩き始める。南口(だったかな)を出てすぐ右に曲がり、5分も歩けば店がある。30秒歩いたところでコーヒー店を見つけ、入店した。待ち合わせの時間まで45分もあるのだから、朝のホットコーヒーを1杯くらい飲んでもいいだろう。席にかけ、友人にもらったハードカバーの小説を開く。あっという間に30分ほどが過ぎた。本を閉じて店を出る。途中、鳩サブレーの店に立ち寄る余裕を見せつつ、店の手前にある交差点にたどりつく。

前方を見るとエメラルドグリーンの壁が目立つ店が目に入る。大きなガラス扉が少し空いていて店内の白いカーテンが揺れていた。まだ看板は出ていないようだ。信号を渡る手前右側にスーパーがあり、入口と歩道の間に3人掛けくらいのベンチがあった。リュックを抱えた男性が右端に座っていたから、一人分をあけて僕は左端に座った。横の男性はしきりにエメラルドグリーンの方を気にしていて、風貌は獲物を狙う鷹のようだった。きっと僕と同じカレー店を目指してやってきた客で、開店のタイミングを少し離れた場所から窺っているのだろう。だとしたら、僕にとって彼はライバルになる。先に店の前まで行っておくべきか。いや、彼の方が僕よりも先にベンチに座っているのだから、僕が先に並んでしまうのは失礼にあたるだろう。そんなことを考えながらスマホに目をやる。

11時25分。少しそわそわし始めた。待ち合わせの時間まであと5分だというのに仲間2人の姿が見えないのだ。横にいる男はちらちらとエメラルドグリーンを気にしている。僕はそれとは逆の方向、歩いて来た道をちらちらと気にし始める。待ち合わせに遅れてはならないと小走りにかけてくる人がいるはずだと様々な人を目で追いながら探すのだけれど、焦っているようなそぶりの人はどこにもいない。平日の昼前に街を歩く人はみな穏やかで、街の景色に溶け込んでいる。

ふと右隣に視線を戻すと、例の男の姿がない。時計は11時29分を示している。しまった! 僕は彼について行って彼の次の順に並ぶつもりだったのだ。慌ててエメラルドグリーを確認するが、ガラス扉の白いカーテンはさっきと変わらずゆらゆらと揺れていて、店の前には誰もいない。おかしいな。
店は交通量の多い車道に面していて店と車道の間に歩行者通路はあるがやたらとせまい。あんなところに人が並び始めたら、3人に1人は車にひかれるだろう。それにしてもさっきの男はいなくなったし、開店30分前になったというのに誰も行列していないなんて。カーテンが揺れているのだから休みではないはずだ。

11時31分。約束の時間は過ぎた。過ぎたのだから、店の前に行かなくちゃ。ひとりでもいいから並んでおこう。でも、誰もいない店頭に、しかもあの狭い歩道にひとりで立ち、白いカーテンを眺めることを思うとなんだかまぬけな気がして、向かいにあるローソンの駐車場の柱のふもとまで行き、コンクリートにしゃがみこんで様子をうかがうことにした。うかがうと言ってもカーテンの中は何も見えず、ただ目の前を忙しそうに車が次々と通り過ぎていくばかり。

11時35分。気になってスマホを確認すると、仲間からメッセージがあった。

「もう並んでます。いま5名です」

もう、並んでる!?!?!? 顔を上げ、エメラルドグリーンを見る。誰もいない。もしや、店を間違えた、のか? 壁に書かれた店名を確認する。間違ってはいない。いや、移転したのかもしれない。こういう勘違いが僕にはしょっちゅうあるのだ。動揺した。ダメかもしれない。たとえばここから歩いて10分先の場所に店は移転していて、その店の前には、2人の仲間を含めて合計5名が並んでいるとしたら。もうダメかもしれない。10分後に行列は10名を超えているだろう。なんにせよ、コンビニの駐車場に座り込んでいる暇はない。

走り過ぎる車と車の合間をぬって道路を渡ろうとすると、仲間の一人が店の右端から姿を見せ、両手を大きく振った。え!? どこにいたの? 近づいてみると店は二等辺三角形のような敷地にあって、頂点から裏側に回ってみると、すでにそこには10名近くのお客が並んでいたのだ。

何が起きたのかすぐに飲み込めず、先頭に並ぶ2人といくらかの言葉を交わしたのちにひとり、最後尾へ並ぶ。「裏側に路地があったのか!」と僕が思ったその路地の側が店の正面玄関だったことに気がついたのは、最後尾に並んだ後のことだった。そうか、そういうことだったのか。ひと息ついて、それからボーっとその場に立ち尽くした。

11時45分。気がつくと店員さんがメニューの紙を持ってそのに出ている。前に並ぶお客さんたちに注文を聞いているようだ。あのメニューが僕の元にもやってくる。どんなランチメニューがあるのだろう? いつか行ってみたいと何年も気になっていたお店なのに僕はその店のメニューを何ひとつ知らない。オススメランチみたいなものがあればそれでいいかな。気がつけば後ろに並んでいる人も10人近くになっている。あまりゆっくり選んで迷惑をかけるわけにもいかない。さっと決めよう。そう心構えをして待つと、僕の2人前までで注文を受ける店員さんの動きが変わった。メニューを見せずに2人前のお客に話しかけている。

「お客様から2巡目になりますので、ご案内できるのが12時30分すぎになりますが、よろしいでしょうか?」

その言葉はハッキリと僕の元まで届いて来た。2巡目が12時30分。12時30分。12時30分。一瞬、くらっとめまいがするような感覚になった。すぐには計算できなかった。僕がこの先、入店して着席できるまでの時間はどのくらいなのか。頭の中で時計を浮かべ、ええと、と計算する。45分間である。思わず後ろを振り返る。僕が2巡目だとして、僕より数人後から並んでいる人は、90分後になる計算だ。抱えているリュックが急にずっしり重たくなったような気がした。数分の間、いや、もう少し長い間、静かな時間が過ぎた。

11時55分。開店の5分前になって、僕は列から離れ、先頭に並ぶふたりの元へ。
「あの、すみません、僕、今日は諦めます。別のところで食事をしているので、食べ終わったら連絡ください。そのあとに合流しましょう」
仲間たちはずいぶん面喰っているようだったが、ほかに僕が取れる選択肢はなかった。何年も気になり続けていた店だとはいえ、何十分も並んで待てる自分が想像できなかったのだ。またこんど、またの機会に来ればいい。今日は、諦めよう。そういう日なのだ。

店を離れ、駅へ向かって歩き始める。1時間以上前に買い物をした鳩サブレーの店を通り過ぎ、駅前を超えて北側に踏切を渡り、線路沿いを歩いた。最近持ち歩き始めたカメラを片手にどうでもいいような景色を何枚か撮影したりして、また歩く。これなら都内でいつもしている散歩と変わらない。ただ逗子という見知らぬ街が新鮮で少し気持ちがよかった。

しばらく歩くと左側に店らしきものが見せる。ああ、そういえば、お腹はすいている。看板にはひらがなで「とんかつ」と書かれていて、胸が高鳴った。とんかつは大好きである。あのカレーが未遂に終わった代わりにとんかつ定食を食べられるなら、と勢いよく入店しようとすると、足元に「ただいま満席」の札。むむむ。そうかそうか、そうですよね。カレーもとんかつも僕を受け入れてくれないんですよね。逗子という街は僕に冷たい街なんでしょうね。なんて愚痴がこぼれそうになる。

腹が減った。なんでもいいから食べよう。とんかつ屋のとなりを見ると蕎麦屋がある。蕎麦の気分じゃないけど、仕方ないか。豪勢に天ぷらそばでも食ってやるか、と玄関へ向かうと2階へ上る階段があり、見上げると「ハラールレストラン」という看板。お? こんなところにインド料理? 上がってみると店内は1階の蕎麦屋が2階までつながったような店構え。おそるおそる扉を開けると中にはシェフらしきバングラデシュ人がひとり。「いらっしゃいませ」とたどたどしく迎えてくれた。僕のほかに客は一人もいない。

これも何かの縁だから、とメニューを開くと「パラタ」の文字を発見。突如、気分が高揚してしまい、シェフに「パラタ? パラタがあるんですか?」と興奮気味に尋ねる。シェフは日本語がほとんどわからないようだが、僕がパラタを食べたがっていることは伝わったようだ。パラタというインドのクロワッサンのようなパンを僕は今年になってからこよなく愛し始め、あちこちのパラタをパトロールして回っている。まさか、逗子でバングラデシュ人のパラタに出会えるとは思ってもみなかった。

盛り上がったついでに、そして、他にお客さんが一向に来る気配がないのをいいことに、僕は勝手に調理場へ顔を出し、シェフがパラタの生地をのばし、焼くのを見守った。テーブルに料理が運ばれてくると、写真を撮影し、それから皿の上のパラタを両手で叩いて揉んだ。その姿を奥の調理場から覗いていたシェフが、うれしそうに声を上げた。ベンガル語?だからなんと言っているのかはわからないけれど、彼も調理場の中で両手をパンパンと叩いて喜んでいる。「そう、そうやってやるといいんだよね!」みたいなことを言っていたのだろう。“パラタの儀”を終えて洗面台に手を洗いに行く僕を見て彼が再び嬉しそうに笑った。こんなにパラタに執着する客に会うことも少ないのだろう。

パラタにドライのビーフローストをのせてほおばり、それからノラという牛骨のスープをすすった。思いがけず貸し切りレストランでの素晴らしいランチになった。未遂に終わったカレー店には改めてリベンジしなければならない。また逗子にくる理由も楽しみもできた。いいこと尽くしの1日じゃないか! 都内に戻り、別の用事を済ませ、夜、帰宅してもなお、バングラデシュ人シェフの嬉しそうな顔が脳裏に浮かぶ。あの店にもまた行きたいと思う。

朝早くから起きて遠方へ向かった長い1日が終わろうとしている。今日のできごとをひとまず記しておこうとPCに向かう。YouTubeのサイトへアクセスし、記事を書くためのBGMにポーランドで終わったばかりのショパンコンクールの映像を選んだ。日本人史上2人目の2位に輝いた反田恭平さんのピアノを聞きながらキーボードを打つ。こんな快挙を成し遂げる人にはいったいどんな世界が見えているのだろう? 

Final roundから見始めたら思わず引き込まれ、Third round、Second roundと見ていったら気がつけば2時間ほどが過ぎた。開店前に30分並べないというのにYouTube前で2時間くぎ付けだもんなぁ、とか、Final弾き切った反田さんの晴れやかな顔と両手をパンパンするバングラデシュ人シェフの笑顔は、どちらも自分には魅力的に映ったなぁ、とか、ポーランドの長い一日も逗子の長い一日も同じ一日なんだよなぁ、とか。だいぶ話がそれてしまったのは、きっと眠気が襲ってきているからだろうなぁ、とか。

深夜1時48分。そろそろ寝ようとFacebook非公開ページにアップした“店の表と裏を勘違いしていた事件”のコメント欄を見てみると、いるわいるわ、僕と同じく店の裏側でずっと開店を待った経験を持つ人の書き込みが何人も。やっぱりみんなやるんだな。僕だけじゃないんだな。でも、きっとみんなはしぶとく並んでカレーにありついているんだろうな。僕も次こそは。必ずや。

(水野仁輔)

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別名“カレープレーヤー”養成所。入学すると10人以上の仲間(同級生)に出会える。授業に出るとカレーの未知なる魅力に翻弄される。卒業すると600人以上の仲間(卒業生)ができる。つまり楽しい日々はずっと続く。そして校長の僕は取り残されてちょっぴり寂しくなる。そんな学校です。水野仁輔