カレーのヒント 048:まぼろしの名店と再会
もし、「MURA」の中村さんに再会できたら、世通し語り合いたいことがある。カレーにおける香りの多様性について、またそのアプローチの自由度について。自由が丘にあったカレーと紅茶の店「MURA」。蔦の絡まる一軒家に入ると、そこは決して広くはないが天井が高く、すばらしく素敵な空間だった。
シンプルなキーマカレーが定番だった。ライスの中央にひき肉のカレーが盛られ、さらにそのど真ん中に色とりどりの何かが添えらえていた。具体的にそれらが何だったのかは記憶にない。いわゆる薬味なのだがスパイスだけでなく、時には食用の花びらなんかも混ざっていたように思う。同心円状に美しく盛られた“香りの素”は、見た目にも華やかで、中村さんの美意識が作品のように表現されていた。
口に含めばメリーゴーラウンドのように豊かな香りがグルグルとめぐる。キーマカレーの上はファンタジーの世界だった。確か日本料理の板前の経験もあってカレーに特別な執着はない、と聞いた覚えがある。既成概念にとらわれず、自分の好きな風味を追求した結果があのカレーだったんだろう。あそこに至るまでの試行錯誤や工夫やアイデアについて、今、改めて聞いてみたい。中村さんの連絡先がわからないことが残念だ。
カレーは香りを楽しむ料理である。「MURA」でカレーを食べながら実感し、食後の紅茶を飲みながら、「そうだ、そのはずだ」と一人確信をしたあの日々は、僕にとって大切な思い出である。
(以上、自著『まぼろしカレー』(山と渓谷社)より抜粋)
どうしよう、あの「MURA」が復活してしまった。閉店後、17年ぶりだという。『まぼろしカレー』が復刊したのと同じタイミングで、二度と会えないと思っていた店と店主に再会できるのだ。昨夜、友人から連絡があった。「あの『MURA』が今日から復活です!」と。
久しぶりに興奮がおさまらず、そわそわした。ホームページで住所と営業時間を調べ、今日、オープンと同時に駆け付けた。
あの味に会える。店主の中村さんに会える。雨の降る中、傘をさして自転車に乗り(ダメな奴ですね)、代々木に急いだ。駐輪場に自転車を置き、歩き始めてまもなく、方向が違うことに気が付き、自転車を取りに戻る。急いでいたせいか、雨に濡れていたからか、派手に転んだ。転ぶなんて何年振りのことだろう。少し先で雨宿りしていた道路工事の作業員ふたりが気まずそうにこちらをチラ見している。立ち上がると左手の手のひらにいくつかの傷があり、血がにじんでいる。ジーンズでふいて、自転車にまたがり、急いだ。開店してしまう。開店直後に僕は店に入りたい。
到着すると従業員の女性(もしかしたら、中村さんの奥さんなのかな?)が、看板を出していた。少しだけ離れた場所で僕はちょっとだけ見て見ぬふりをして、30秒ほどじっとする。時間を見ると、開店時間の11時は3分ほどすぎている。女性がいなくなってから、と思っていたのだけれど、このまま目が合ってしまうのもなんだか気まずくて、扉に向かって歩を進めた。
「もう、大丈夫ですか?」
「あ、どうぞ!」
傘を閉じてパチンと締め、店内に入る。お客は誰もいない。しっとりとした雰囲気。
「お好きな席へどうぞ」
そう言われて戸惑い、少しだけ挙動不審になってしまう。左奥の調理場にいる初老の男性の姿が僕の視界に入ったからだ。中村さんだ。中村さんに違いない。なんだか、恥ずかしくて調理場を凝視できない。右奥の席を選べば調理場から僕の姿は見えない。窓際を陣取ると調理場から丸見えだ。僕はオロオロとしながら、その中間くらいの、それでも居心地のよさそうな窓際の席を陣取った。どうしても自然光がきれいに入る席を選んでしまうクセがある。カレーの写真を撮影しようなんて気は全くないのに。
席に着き、荷物をおろして一息つくと、あろうことか、そこは左斜め前に調理場がダイレクトに目に入る場所だった。テーブルにあるメニューを見るふりをしたが、注文するものは決まっていた。サラダとカレーと紅茶のセットである。注文し、食べる間、ずっと小さくドキドキしたままだった。調理場にいるのが中村さんであることは間違いなかった。でも、中村さんと目が合ったらどんな顔をしていいのかわからない。
僕のことを覚えていてくれるかはわからないし、何しろ、17~8年ぶりにお会いするのだから、どんなタイミングでどう声をかけたらいいのかもわからない。うつむいて自分の膝に目をやるとさっき手を拭いた膝のあたりが血でにじんでいた。思い出したように左手を開く。3か所がヒリヒリしている。血は止まっているようだ。
気を取り直して、カレーを食べる。懐かしい味わいだった。「MURA」のカレーの味を正確に詳細に記憶しているわけではない。それでも、「ああ、MURAのカレーだなぁ」としみじみ懐かしくなったし、本当においしく、久しぶりに僕はおいしいカレーを食べているという実感を持った。そうそう、こういうカレーが好きなんだよなぁ、と。
チャイを飲み終わって時間を見ると、11時50分。気が付けば、1時間近く店にいることになる。きっとまだ「MURA復活」の情報は出回っていないようで、ずっと僕は貸し切り状態で食事を楽しんだ。貸し切りだというのに中村さんの顔は見ることができず、ときおり、中村さんが女性と談笑している声が聞こえるたびに心臓の鼓動が高鳴った。
再会したら、夜通し語りたいことがあるんじゃなかったのか? 借りてきた猫よりおとなしくなっている自分自身に突っ込んだ。テーブルで会計を済ませ、去り際に意を決して中村さんに話しかける。名を名乗り、マスクと帽子を取ってお辞儀をする。覚えていてくれたようだ。すかさず僕はカバンの中から『まぼろしカレー』を出し、差し上げた。簡単に説明をし、「また来ます」と伝えて逃げるように店を出た。
自転車に乗り、ハンドルを握るとまた左手がヒリヒリした。本を渡したときの中村さんの笑顔を思い出しながら、甲州街道を走った。開店したばかりだというのにやたらと居心地のいい店だった。あんなに気持ちはソワソワしていたはずなのに、あっという間に時間が過ぎていたからだ。中村さんは相変わらず優しそうではあったけれど、僕が積極的に話しかけ、あれやこれやと語らえるようになるのにはまだまだ時間がかかりそうな気がしている。まあ、気長に通いたいと思う。
あー。緊張した!
(水野仁輔)
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