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カレーのヒント 020:スパイス泥棒

「こないだね、うちの店に泥棒が入ったんですよ」
「え!? 無事でしたか?」
「何も取られなかったんだけどね、棚のガラスを開けようとした形跡がある」
「棚に何か大事なものが?」
「あるんですよ、僕が調合したスパイスがね。あれを狙ったに違いないんだ」

15年ほど前、町田の老舗カレー専門店『アサノ』を訪れたときに店主とそんな話をした。あのときの彼の目は真剣だった。横にいた奥さんがどんなに否定しようと持論を曲げようとはしない。

「あなたね、泥棒ってもっとお金とか高価なものを持っていくのよ。スパイスなんて、興味あるわけないじゃない」
「いや、そんなことはない。あれは絶対にスパイスを狙ったに違いない」
「そんなわけないじゃない」

創業者、故・浅野さんとの忘れられない会話である。今は息子さんが継いでいる。
ずいぶん久しぶりに「アサノ」へ行った。実に5年ぶりくらいなんじゃないか、と思う。カウンターのみ10席に満たないこの店は必ずと言っていいほど行列する。だから、開店時間ぴったりに出かけて行った。なんとか1巡目の客として入店。
店主に挨拶をしてカツカレーを頼む。都内で食事をするときは、それがカレーであろうがなかろうが、「写真は撮らずに黙々と食べる」と決めている。でも、たまに撮らずにはいられない店がある。『アサノ』もその一軒。カツカレーがやってきたらそおっと写真を撮ろう。

待っている間、ふと、店主の後ろにある棚に目をやると、懐かしいバンダナが目に入った。10年以上前にガイド本を出版したときに記念で作ったものである。まだ飾ってくれていたんだ……。あのバンダナには、当時、「食べ歩きの極意」的な言葉を記したことを覚えている。その中に「写真を撮るなら店主に許可をもらおう」みたいな一文があることを思い出した。それなのに僕は断りもなくさっと写真を撮ろうとしている。それでいいのだろうか。
まあ、もう、いいことにしようか。10年以上前と今では時代が違う。当時は大事にしていたことだが、このご時世、写真を撮らずに食べる人の方が少ないくらいだ。店主だってもう慣れているんじゃないか。

そんなことをボーっと考えながらカレーを待っていると、二つとなりの女性のところへ先にカレーがサーブされた。目の前に皿が置かれた直後にその女性が口を開く。
「すみません、写真撮っていいですか?」
「どうぞ、どうぞ!」
気持ちのいい会話だった。ま、いいかと思っていた自分が恥ずかしくなった。僕のところへカツカレーがやってくる。彼女とおなじように僕も店主に声をかけた。
カツカレーを口に運ぶ。代替わりして味が変わったなんて話はよくあるが、昔と何も変わらないおいしさに安堵した。

かつて、僕はこの店について、「カツカレーの世界遺産にしたい味」と表現した。なんと稚拙な……。文章力の乏しさに顔が赤くなる。今だったらそんな表現は絶対にしないよな。「神だ」とか「天才だ」とか「おいしすぎる」とか「感動しかない」とかいった、最高級表現や限定的な表現はできるだけ使わないように気をつけている。これでも一応、プロの端くれだから、ね。
その後、2代目の店主と積もる話をあれこれとしていると、思わぬ朗報を聞いた。なんと、二十歳を過ぎたばかりの“2代目のの息子さん”が、3代目を継ぐべくレストランで修業を始めたそうだ。
2019年の最後に素晴らしいニュースを聞いた。僕が45歳。3代目は20歳。きっと僕は死ぬまで「アサノ」のカツカレーを食べ続けることができるのだ。

喜びを噛みしめながら噛みしめるカツの味わいは素晴らしい。さらっとしたカレーソースがご飯にしみてシミジミとしてしまう。万が一、この店にまた泥棒が入って、今度は本当にミックススパイスが盗まれるようなことがあったとしたら、きっと僕は警察に自首しに行かなきゃならないんだろうな。
うんうん、やっぱりおいしいよなぁ!
いやぁ、カツカレーの世界遺産にしたい味だ!

(水野仁輔)

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別名“カレープレーヤー”養成所。入学すると50人の仲間(同級生)に出会える。授業に出るとカレーの未知なる魅力に翻弄される。卒業すると500人以上の仲間(卒業生)ができる。つまり楽しい日々はずっと続く。そして校長の僕は取り残されてちょっぴり寂しくなる。そんな学校です。水野仁輔

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