カレーのヒント 031:忘れたらサヨナラ
メモは取らない、と決めている。
写真も撮らない、と決めている。
思い出になるかもしれないものはできるだけ処分する、と決めている。
過去のことは記憶の中だけにとどめておけばいいと思っているからだ。そして僕は記憶力があまりよくないからたいていのことは忘れてしまう。文章を書く立場として、色々とネタを記録しておいた方が何かにつけて役に立つのかもしれない。でも、僕はそれをあえてしないことにしている。文章を書こうとする。あれって、どうだっけ? あのとき、どんな感じだっけ? そう思ったときにメモや写真を引っ張り出すのではなく、思い出せないならあきらめて、別の手法をひねり出してでも文章にする方がいい。僕みたいに文章力のない人間は、そうでもしてトレーニングしておかないと、いつまでたっても筆力が上がらない。記録を頼りに表現することを続けてしまったら、僕じゃなくてもいい文章になってしまいそうだ。
だいいち、あれって……と思ったときに記憶に残っていないレベルのものだったら、自分にとっては引っ張り出して表現する価値もないものだと思う。大事なことは憶えているし、印象的なことは忘れない。
そう思ってやってきたら、最近、よく聞いているラジオ番組のアーカイブで大瀧詠一さんが作曲時のメロディについて語っていた。ふと頭に浮かんだ曲を何かしらの形で記録しておくかどうか、についての話だった。大瀧さんは、言った。
「思い浮かんで、忘れたらサヨナラ」
記録を取ったりなんかしない、と言う。そうだ、そうだよな、と思った。勇気をもらった。
そんな僕が、海外へ取材に出かけたときだけは、メモを取り、写真を撮っている。何よりも一次情報を大事にしているからだ。誰かに聞いたことや調べたことなどよりも、自分で動いて、見て、体験して、感じたことを常に拠り所にしている。だから、旅先では、普段、持ち歩かないデジカメを携帯し、メモ帳にメモを取る。1日が終わると夜、ホテルで写真をPCに取り込み、メモをPCで打ち込んでいる。
たとえば、先日のパキスタン・インドへの旅もそうした。そして、紀行本『インド即興料理旅行・チャローインディア』の原稿を書くときは、まずは、自分の頭の中で思い浮かんだことや覚えていることだけを頼りに原稿を書き、加筆修正していく二度目で写真を見直したり、メモをチェックしたりして書くことにしている。
このときばかりは、忘れたらサヨナラではなく、忘れていたものもコンニチハするのだ。そろそろパキスタンとインドについてコンニチハする段階がやってきた。写真を見返すのを楽しみにしている。
(水野仁輔)