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ジンケ・ブレッソンの世界カレー紀行

「ジンケさんの写真集をうちから出しませんか?」
思いがけない、とはこのことを言う。今年のはじめ(だったかな)、僕はとある出版社から依頼をいただいた。瞬時に嬉しさが体中を駆け巡り、深呼吸をして、気持ちをなんとか落ち着かせ、それからお断りの返事を書いた。

2021年の秋、僕はカレーの人を卒業して記録写真家になった。世界中のカレーとスパイスだけを専門的に記録する写真家である。あれから2年が経った。写真家という職業は、料理人やシェフみたいなものと同じで資格がないから、なろうと思えば自称すればなれる職業だ。
僕が写真家の活動としてイメージしているものは、写真集の制作と写真展の開催。これも、2年のうちに果たした。写真集はイートミー出版という自費出版レーベルからすでに9冊を出しているし、写真展も一度実現させた。えへん! もう、立派な写真家なのである。

写真家宣言をして、写真集を自費出版した後、僕の周囲にはいくつかの小さな動きがあった。まず真っ先に勤めていた広告代理店のクリエイターから連絡があった。
「広告の仕事はやるの? やるなら仕事を振るよ」
「いや、やりません。カレーとスパイスしか撮らないんで」
ありがたい話である。

カレー店を営む知人からも。
「うちのホームページ、リニューアルするんで、ジンケさんに撮影してもらえませんか?」
「いや、そういうのは、料理カメラマンさんにお願いした方がいいですよ。僕の周りに優秀な人が山ほどいるから紹介しますよ」
「そうか、残念です。ジンケさんの写真集を見て、こんなトーンで撮ってもらいたいなぁ、と思ったんですが」
思ってもみない言葉だった。カレーを撮るのだから、と頑張って撮った。とはいえ、記録写真家は、自分の撮りたいものしか撮らないというスタンス。お金をもらえる仕事とは縁がなく創作していくつもりだから、あれが最初で最後の仕事になるかもなぁ。

ポッと出もいいとこの写真家だから、周囲の反応はたいてい「ふーん」と白けた顔をされるか、「やれやれ」と呆れられるか、「バカにすんなよ」と怒られるか、そんなとこだろうと思っていた。実際、旧知の某カメラマンさんからは厳しい言葉が飛んできた。
「へたくそな写真で写真集なんか作って……」
 あれはショックだったなぁ。もちろん自覚していることだけれど、面と向かって言われるとつらいもんだ。今だに引きずっている(すみません、精進します!)。

僕のように才能のない人間に残された唯一の手段は、“続ける”ことだ。

これは常々思っていることだ。時代に選ばれるような人がいる。世間の人気を獲得できるような人がいる。生まれ持った才能を発揮できる人もいる。そのどれでもない僕は、とことんやり続けるしか手段がないのだ。カレーがそうだった。
カレーの活動は20年ほどやったあたりから、ようやくものになってきたかなと思う。だから、写真家だって今はお粗末でも20年続ければものになるんじゃないか、と思っている。ただ続けるのではない。カレーと同じように、呆れるほど徹底的に続ける。そうすれば、何かになるんじゃないかと思っている。
敬愛する将棋の羽生善治さんは、「才能とは、努力を継続できる力」だと言っていた。そうか、継続できるのも才能のひとつなのか、と。それなら、その才能で行くしかないと思いを強めた。

捨てる神あれば……、ということで、嬉しいこともあった。旅本を山ほど作ってきた編集者さんの言葉。
「お世辞ではなく、今まで見たどの写真よりも好きです」
いや、お世辞かな、さすがに、これは。
メキシコを一緒に旅したシェフ仲間からは驚嘆の声を聞いた。
「あの場所がああいうふうになるなんて、驚いた! 一緒に旅してすべて同じ景色を見ていたはずなのに!」
彼のレストランでは、僕の写真集9冊を店内の目立つところに置いてくれている。正直言って、超うれしい。

尊敬する編集者さんが雑誌『あまから手帖』の編集長に就任し、連載の依頼があった。雑誌のお仕事は長い間、遠慮させていただいていたけれど、「この話はやりたい」と思い、スタートして1年が経った。2年目に突入したとき、連載の写真をジンケ・ブレッソンの写真にするとのお話が来た。記念すべき連載第13号に、水野仁輔とジンケ・ブレッソンの共作が誕生。これは感慨深かった。

そんなこんなの2年間の途中に、件の依頼を頂いたのである。商業出版社から、というのは自費で出すのとは少し意味が違う。自分以外の誰かが僕の写真に価値があると感じてくれているからだ。しかも、「ジンケさんの写真集を」と言う。「ウソでしょ!?」と思った。お断りのメールは、「遠慮します」という内容ではなく、僕からの提案を書いた。

「ジンケ・ブレッソンの写真に世の中のニーズがあるとは思えず、ご迷惑をおかけする結果になるかもしれません。ただ出版依頼はとても嬉しいので、水野仁輔がエッセイとレシピを書いて共著の形を取るというのはどうでしょうか?」

ひとまず会って打合せを、ということでこの本の話は進んだ。今思えば、「ジンケの写真にニーズがない」という前半部分はともかく、「水野と共著で」という後半部分はいかがなものか、と思う。まるで「水野には価値がある」という驕りが垣間見えるようで、なんとも恥ずかしい。

ともかく、本の話は進み、ジンケ・ブレッソンは写真をせっせと選び、水野仁輔はエッセイを書いてレシピを整理した。2人の共著というのも当たり前だけれど初めての作業で、ドキドキした。

そんな新刊『スパイスハンターの世界カレー紀行』が、2024年2月半ばについに発売される。

2人3脚で制作したから、かなり濃い内容の1冊になったんじゃないかと思う。「ジンケさんの写真集を……」と声をかけてくれた編集の方に本当の意味で応えられるのはいつになるだろう? そのためには、これからもせっせと撮り続けるしかない。
カレーとスパイスしか撮らない写真家は、おそらく世界で1人しかいないだろうから。孤独な作業にはなるけれどね。

あ、ちなみに本業ではなく、ライフワークにスイッチしたカレー活動の方は、幸か不幸か自由を手にしたせいで拍車がかかり、目が回るほど精力的に行っている。記録写真家の妨げにならないよう、気をつけたいと思っている。

2023年12月31日
ジンケ・ブレッソン/水野仁輔


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